ぬんぬの日記

ASD特性を持つ自分についての考察日記

着る服を選ぶのがものすごく苦痛!

私は昔から、とにかく自分が着ていく服を考えるのが苦手です。

テレビでやっているファッションチェックの企画を見ていても、チェックされている人がどうしてダメ出しされているのかがよくわかりませんでした。

小学生の頃、上下デニム生地の服を着て行って、クラスメイトから「その服変だよ(意訳)」と言われるまで自分のコーディネートがヘンテコだったことに全く気が付きませんでした。

(むしろ、上下同じ生地の服を合わせるのが正しいと思っていました。(この考えも一概には間違いとは言えないかもですが、少なくともファッションセンスゼロの人間がやると悲惨なことになります…))

外ですれ違う人達の服装や、ファッション雑誌を見て勉強しようとしてみても余計にわけがわからなくなり、頭がパンクしそうで、できれば「もうファッションのことなんか考えたくない、自分専属のスタイリストさんがいてくれればいいのに。」とさえ思ってしまいます。

 

どうしてこうなってしまうのか、元々自分がファッションに興味が無いという事もあるかもしれませんが、ASDの特性も多少影響しているのではないかなと考えています。

その要因として考えられることをいくつか挙げてみます。

①興味の幅が狭く、自分にとって関心のないことを考えるのが苦手

まず考えられるのが上でも書いているようにファッションに興味が無い、興味を持とうとしても関心のないことについて無理矢理考えようとする事で一種の拒絶反応のようなものが出てしまうということです。

これは感覚的なものなので説明が難しいですが、例えば、人から自分には興味の無いジャンルの話を延々と聞かされるのが苦痛、退屈、もうやめてくれなどと思ってしまうのと似たような感覚です。

私の場合はたまたまその興味の無いジャンルがファッションというわけですが、やっかいなのがファッションは日常生活において切っても切り離せない(関心を持たざるを得ない)存在であることにより、嫌でもファッションについて考えなければいけない。それが私のファッション嫌いを更に加速させているのではないかと考えています。

②先が見通せない不安等により、自分の身だしなみ以外のことに頭がいってしまう、結果的に身だしなみがおろそかになる

これはどういうことかと言うと、例えば外出する前に「忘れ物はないかな」とか「目的地に着くまでにはいつ家を出て、このルートで行って…」とか「目的地に着いたらまず何をすればいいか」など私はちゃんとした計画や道筋がわかっていないと不安になり、例え事前に下調べしたとしても出かける前に「これで合ってるよね。もう一度確かめよう。」と確認している内に「今日着ていく服装を考える時間が無い!どうしよう!」となってパニックになってしまって身だしなみがおかしくなってしまうパターンです。

そのためにこれは私あるあるかもですが、よくシャツからインナーがはみ出していたり、インナーが透けて見えてしまったり、ボタンをかける位置がズレていたり、襟がよれていたり、スカートなど前と後ろを逆にして着てしまっていたりなどなどそれらに気づかないまま外出してしまって恥ずかしい思いをしたことが多々あります。(もはやコーディネートを考える以前の問題…)

これの対策としては事前に着ていく服のことを考えることができるように時間に余裕を持てばいい話なのですが、やはり関心がないことを考えようとしてもなかなか頭が動いてくれなかったりするので意外と難しいんです(言い訳)

③ファッションにおける暗黙のルールがわからない

この“暗黙のルール”については過去の記事でも何度か話題に挙げていましたが、ファッションについても当てはまると思います。

「この服(色、柄)はこれと組み合わせるのがベスト!」とよくファッション誌には書かれていますが、こういう暗黙のルール(さっきのファッション誌の例は“暗黙”ではないですが)がファッションにはたくさんあるように感じます。

この暗黙のルールがあることにより、ファッション誌を参考に自分の着る服、買いたい服を考えようと思っても頭では「???」となってしまいます。ファッション誌のコーディネートを自分のコーディネートに当てはめることが上手く出来ないのです。

更に過去に自分の考えたコーデがダサいとか変だとか言われてしまうと「自分はセンスが無い人間だ」と自信を無くしてしまい、もう何が正しいのかがわからなくなってしまいます。

④感覚過敏やこだわりにより、自分が着られる服に制限がある。そのため更にコーディネートを考える難易度が上がってしまっている

これについてですが、例えば「この服ははだけすぎていてスースーするからNG」、「この服は首周りがチクチクしそうだからNG」、「この服は洗濯機で簡単に洗濯出来なくて常に清潔な状態にできないからNG」などといったようにせっかくデザインが気に入った服でも「これは着れない」と感じてしまう服がたくさんあるために仕方なく“自分の中での着れる服”の条件を満たしている服を妥協するしか無くなってしまいます。

ファッション誌でいいなと思ったコーデの服と似たデザインの服を見つけても、“自分の中での着れる服”の条件を満たしていないために購入できず、結局ファッション誌を見ても実際に真似してみようと思うコーディネートがごく少数に限られてしまうのです。

⑤視野が狭いため全体のバランスに意識がいかない

これは例えばこのスカートいいなと思って買ったはいいけど他の服と合わせようとするとあれ?となってしまったり、上下のコーデがようやく決まった!と思っていざ外出となった時、「あ!このコーデに合う靴が無い!」となってしまったり…

この視野の狭さも全身コーデが上手くいかない原因の一つなのかもしれません。

 

ここまで自分の着る服を考えるのが苦手な理由について考えてみました。ですが本音を言うと、『人の着る服にいちいち文句をつけてくるなー!何を着たって自由じゃないかーーー!』と声を大にして言いたくなります。

もっと人の着る服装に対して寛容な世の中になってくれることを願っています笑 いや、切実に。

 

 

全くの余談となってしまうかもですが私はドラクエ10(2022年5月現在は休止中ですが)のドレスアップ(通称ドレア)を考えるのは好きでした。

ドレアというのは文字通り、自分の操作するキャラクターの服装やカラーリングを考え、実際に着せることです。着せ替えみたいな感じです。

私はこのように自分では無い、ドラクエ10のキャラクターのようなアバターを着せ替え人形のようにコーディネートを考えるのは苦では無いどころかむしろ楽しめるみたいです。

その理由も考えてみたのですが、

①面と向かってダサいと言われたり、直接でなくても「うわ、この人ダサッ」と思われるような空気では無い

この理由が一番大きいと個人的には思います。

ドラクエ10の世界のファッションは自由度が高く、男性キャラにフリフリのスカートはかせている人が当たり前のようにいたり、ハロウィンパーティーのような着ぐるみやコスプレしている人もたくさんいたり(もちろん普通?におしゃれしている人もいます)ととにかくバラエティーに富んでいてみんながそれぞれ自由なドレアを楽しんでいます。

自由なので暗黙のルール的なものも(たぶん)無いです。(私が気づいてないだけで有ったらごめんなさい)

そのためでしょうか、人の服装についていちいち文句をつけてくる人はほとんどいないどころか「そのドレア、いいね!」と言ってもらえることもあるので、ドレアをすることがとても楽しく感じています。

②着るのはゲーム内のキャラクター(アバター)だからNG服が無い

基本的にドラクエ10のキャラは当たり前ですが「この服、チクチクして着れなーい」なんて言ったりせず、どんな服でも文句一つ言わずに来てくれるのでドラクエ10内で実装されていて尚且つ自分が入手可能な装備(ここでいう服)さえ有れば制限なく自由にドレアができます。

それに、リアルな自分が実際に着るわけでも無いので「これ、自分じゃ絶対着れないな…」というデザインの装備もアバター的存在のドラクエ10のキャラには遠慮なく着せることができます。

③試着が簡単

ドラクエ10のゲーム内には“妖精の姿見”というアイテムが有り、これを使うと自分のキャラクターに好きな装備を一瞬で着せることができます。簡単に色んな服やカラーリングの組み合わせを試せるので失敗しづらいです。

これが現実だと服を一着試着するだけでも時間がかかってしまいますし、サイズが合わなかったなんてことも出てきます。

ちなみにドラクエ10の装備はどんな大きさのキャラでも自動的にそのキャラにフィットしたサイズになるようになっていますので笑 サイズのことを気にする必要もありません。

ドラクエ10(のキャラクター)に関心がある

自分の着る服を考えるのが苦手な理由としてファッションに関心がないからと書きましたがドラクエ10のドレアについてはそもそもドラクエ10というゲーム自体に関心があるため、そのキャラクターのドレアを考えるのも苦痛と感じないのでは?と思いました。

裏を返せば、もっと自分自身への関心を持てるようになったらもしかしたらファッションにも興味が持てるかも…!?

 

いろいろ書いてきましたがやはり結論としては人からとやかく言われたく無い、自分の好きなように服を着れたらもっと楽しめそうという気持ちが強いのかもしれないですが、もっと自分のことにも目を向けられるようになることも大切かもしれないです。

 

 

 

一人が好きな人間にとっての幸せってなんだろう

これは考察では無くただの独り言です。

そしてひたすら暗いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

私はASDの特性か、元々の性格かはわかりませんが、一人でいる方が気が楽で(他人のペースに合わせるのが超苦手)一人でいる方が落ち着きます。

でも一人だと「誰かの役に立てている」という実感が湧きません。

今の仕事も正直何の役に立っているのか、これって本当に必要?と感じる時があります。無駄なんじゃないかと思う時が度々あります。

私の両親は、自分の子供に対しては「本人が幸せに生きているのであればそれでいい」というスタンスなのですが、私にとっては「何をもって幸せと言うのか」がわかりません。

私は絵を描いたり、ゲームをしたり、旅行をしたり、新しいことを知ったりするのは「楽しい」とは思います。

でも「楽しい=幸せ」と言えるのかがわからないです。

一般的?には家庭を持てたら幸せみたいな価値観を持っている方もいるのかもしれないけど、タイトルにもあるように私はどちらかと言うと一人でいることが好きなので必ずしも家庭を持てたからといって幸せと思えるのかと言われると少し疑問です。(周囲の環境にもよるかも)

これを幸せと言うのかわかりませんが、私は「誰かの役に立てたら嬉しい」と感じます。(そういう考え方になってしまって?います)

でも、冒頭でも述べたように自分はイマイチ誰かの役に立てていると言う実感が持てませんし、そもそもこれもそうですが「嬉しい=幸せ」と言えるのかもわかりません。

人の役に立つという実感も持てず、ただ一人でいるのが好きで人と関わるのが苦手、更にどうやったら幸せになれるのかもわからない(そもそも何をもって幸せと言うのかもわからない)。

そのため私はこれから何を目指していけばいいのかもわからない。

目標も無くただただ生きていくだけなのは時々無性にしんどくなる時があります。

私は発達障害により周りの助けが無いと生きていけないと感じているので尚更です。

このような考えに陥ってしまうと憂鬱になって眠れなくなる時もあります。

一体どうしたらいいのでしょうか?

考え続けても答えが出なくて更にしんどくなるばかりです。

人の多いカフェでゆっくりくつろげない!

私は(最近は正直面倒であまり会っていませんが)友達と会ってゆっくり話をしよう、となった時にその話す場所のチョイスとして人でごった返しているカフェ(スタバとか…)に連れて行かれるのがちょっと嫌です。

そのようなカフェには私にとっては居心地が悪く感じる要素がいくつかあるからです。

そのうちの一つが、人の話し声などの雑音が非常に多い点です。

人と話す時、通常であればカクテルパーティー効果という雑音の中でも自分が聞き取りたい話だけをしっかりと聞き取る能力が備わっているみたいなのですが、私にはこのカクテルパーティー効果があまり発揮されておらず、ちゃんと話を聞きたい相手の声も周りの雑音と混ざってしまって非常に聞き取りづらくなっています。

このようなカクテルパーティー効果が効きづらく、話し声などの聞き取りが上手くできない症状を“APD(聴覚情報処理障害)”というそうです。

このAPDはASDなどの発達障害の人がなりやすい傾向があるみたいです。ASDの感覚過敏とも関係しているのでしょうか…?

お店で会計する時も最初に店員さんが流し作業のような口調でこちらに何か質問してきますが、これのほとんどは聞き取ることが出来ず、(私には「□★*○ですか〜?」という感じで聞こえてます)話が噛み合わなくなることがしょっちゅうです。

私はこのAPDの症状に加え、元々自分の声が小さめということもあり、まず注文だけでも一苦労です。雑音の多い店内で上手く注文をこなすのは私にとっては至難の業となってしまっているのです。

また、スタバのようなカフェでは注文の仕方に(私にとっては)暗黙のルールがたくさんあるような気がします。

暗黙のルールがわからないことによる日常の弊害https://nunnu.hateblo.jp/entry/2022/04/18/185649

で話したコンビニのレンチンの待ち方がわからないというのと少し似ていてここにとても困り感を感じています。

それを乗り越えてようやく友達と会話ができるという状態になってもまだ困難が待ち受けています。

先程述べたAPDによる話の聞き取りづらさから相手が何を話しているのかイマイチ聞き取れません。一応適当に相槌を打ったりしていますが(聞こえていないから話を聞いていないのと同じかもですが)相手の方から何かしらの質問をされた時、自分はいつもの癖で「はい」と答えてしまいますが、相手の様子がおかしいことに気付きます。そこでようやく「あっ、今の質問ははいで答えるものじゃなかったんだ。」と気付き、結局「すみません、さっきの質問もう一度言ってもらっていいですか?」と聞き返すことになります。

これは自分あるあるでそれなら最初から聞き返しておけばいいのですがつい反射的に何か答えようとしてしまうのでここは“聞き取れなかったらしっかりと聞き直す”を日頃から意識しないとなーと思っています。

また、これはASDの感覚過敏からくるものなのかもしれませんが、普通に会話していても周りの話し声も拾ってしまうため話に集中できなかったりもします。そもそもこの感覚過敏のせいでカフェのような雑音の多い場所はそこにいるだけで常に刺激を受けている状態となり、ひどく疲れてしまうのです。

「カフェ=落ち着ける場所」というのが一般的なイメージかもしれませんが、私にとっては落ち着くどころかどこかそわそわしてしまう場所となってしまっています。

これは相手の希望に流されがちな自分も良くないな、と思うのでこれからは自分で静かで落ち着いてゆっくり話せそうな場所を下調べしておいて「ここはどうですか?」といった感じで提案してみることも必要だなぁと思いました。

もしこれで友達から「ここは嫌だ」と言われたら私はその友達との相性があまり良くないのかもしれないので、もしかしたら距離を置くことになるのかもしれません…(ASDの人は特にそう感じやすいと思うけど、人付き合いって難しい!!!)

 

このブログを書く意味について

今さらですが、”私がなぜこのブログを始めようと思ったのか”このようなブログを書こうと思った背景について書いていこうと思います。

私は今障害者雇用で働いています。そして私だけで無く私と一緒に仕事を行う同僚の方たちも私と同じように障害者雇用で働いています。

しかし、私とは異なる点もあります。私は発達障害ASD)の特性がありますが同僚の方たちは必ずしも私と同じ発達障害というわけでは無く、それぞれさまざまな障害特性を持っています。

そのため、同僚に自分の障害について説明しても残念ながら理解してもらえない時があります。そして私自身も同僚の皆さんがどのような特性を持っていて、何に困っていて、どういうところを助けて欲しいのか(どんな合理的配慮を求めているのか)は完全に把握できていません。私の職場はあまりそれを大っぴらにする風潮ではないというのもありますが…

なのでまずは自分の障害特性について上手く説明ができるように自分自身の理解を深めよう、と思いました。そのためにはそもそもASDにはどのような特徴があるのか、それはどれくらい自分に当てはまっているかこの二つがわかれば今までの自分の困りごとなどの上手くできないことがなぜそうなってしまうのかがわかるようになります。

そして“自分のことを深く知ること”で困りごとに対してどのように対処していけば困らなくなるかもわかり、それを周囲の人たちにも説明しやすくなると思いました。私がこのブログを始めようと思った目的は“自分のことを深く知るためにさまざまな観点から自分のことについて考察し、それを記録として残しておくため”なのです。

そしてゆくゆくは自分の障害(ASD)以外の障害についても勉強したいなとも思っています。相手が何で困っているのかがわかればその苦手な部分をフォローすることができるかもしれない、そうすることによって仕事もより円滑に進めることができるのではないかと思ったためです。

お互いやりづらさを感じながら仕事をしていくのはあまり良いとは思えませんからね。

ただ個人的には「私は障害者でこのような困りごとを抱えていますので理解してくださいね。じゃ、そこんとこよろしく。」というように一方的に相手に要求するだけになるのはちょっと違うなと思います。

なんというか…「障害者はこれができないんだ!みんな分かれよ!」とも捉えられる一方的に周囲や世の中に対して理解することを押し付けるような言い方では相手には「障害者って面倒だな。あまり関わらないようにしよう…。」というようにかえってマイナスなイメージを持たれてしまうし、相手の負担も増えてしまいます。

なので、自分の困りごとと配慮してほしいことについて説明するのもとても難しいのです。

障害者雇用で入社する際、企業には合理的配慮という障害者が障害のない人と同じように働けるようにするための配慮を行うことが義務付けられています。

しかし、ASDのような発達障害は一見すると障害を持っているようには見えづらいなどの理由もあり、配慮は周囲の人によっては不公平だ、甘えだなどと思われてしまうかもしれません。

これは難しい問題だなと思います。なので少し伝え方を工夫することで相手の捉え方も変わるのではないかと考えました。

例えば「私は聴覚からの情報を処理するのがが苦手なので口頭での説明が上手く理解できない場合があります。説明を聞いてもわからなかった部分は質問をして確認するようにします。ですが、もし可能であれば文字や図で仕事の手順が書かれたマニュアルが有ると助かります。」

太字で書いた部分のように自分にとって困難な部分でも工夫して“自分で”改善できそうなところを伝えつつ(上の例だと質問が増えてしまい相手の負担も増えてしまうかもですが…でもわからないまま仕事を進めるよりはマシだと思います!)自分だけがどう頑張っても難しいところは合理的配慮として企業に「こうしてもらえたら助かります。」といった感じでお願いするという形だと、ただ一方的に「自分は××が苦手なので○○させてください。」だけ伝えるのよりだいぶ相手から見た印象は変わるんじゃないかなと思いました。

この私の考えについてそうは思わないという方も中にはいるのかもしれません。私も実際にこのような伝え方をしたり、それを実行したりするのはなかなかに難しいことであると思っているので障害者雇用で就職する人はみんなこういう伝え方をするべき!というのも違うかなと思います。

(そもそも自分は○○するべきとか、○○であるべきとかいう言い方があまり好きではありませんからね…)

ですが少なくとも私は、自分が抱えている困難さは完全に周りの助けで解決してもらうよりは自分の努力や工夫次第で解決できそうなところはなるべく自分の力で解決するチャレンジをしてみる、というやり方の方が精神的に居心地が良い?罪悪感が薄まる?あまり良い表現が思いつきませんが、なんとなく生きやすくなる、そんな気がします。

人と目を合わせるのがこわい!

私は人と面と向かって話さなければならない時にどうしても相手の目を見て話すということが出来ず、視線を違う方向(例えば話し相手が話しながら手遊びをするクセが有ったとすると、その動いている手を目がずっと追いかけているような形になり、相手の顔は見たとしても口元辺りまで)を見ている事が多いです。

でも、ずっと視線を逸らしたままだとたぶん相手からしたらずっとうつむいているように見えちゃうだろうし、もしかしたらちゃんと話を聞いていないと思われているんじゃないかとか考えてしまい時々は目を合わせるようにします。でも目があってしまうと(これは感覚的なものなので上手く言葉で表現するのが難しいのですが)ドキッとするような、ゾクっとするような、「しまった!目が合ってしまった!」というような気持ちになってしまいます。

これは例え相手がどんなに親しい人であってもそうなってしまいます。これは昔からそうでうっかり人と目が合ってしまうと思わず逸らしてしまったりしてかえって不自然な感じになってしまうことがよくあります。

視線を合わせずに話している自分が周りからはどう映るのか知りたいような、知るのがこわいような気持ちです…。

更に言うとzoomのようなビデオ通話で一対一で会話する際もあまり目を合わせることができません。なんだか緊張してしまうんです。

更に更に言うとビデオ通話だけでなく写真と目が合うのも苦手です。そのためスマホの待ち受けを人の写真にすることはまず無いですし、スマホのアルバムを眺めている時にいきなり人の顔が出てきたらびっくりするので(自分の顔であっても!笑)自撮りとか、人の写真を撮るとかはなるべく避けてます。

だから友達から記念写真を撮ってもらってLINEで共有されても困る…ってこともあります。

当然自分の部屋には人の顔が写った写真を飾るなんてことはしません。しかし、小さい頃から困っていたのが両親の実家に行くとお仏壇のある部屋には必ず親族の遺影が飾ってあることです。

幼少期の私はその部屋で寝ようとしても怖くて全然眠れませんでした。(写真に写っている人が怖い人だからというわけでは無い(そもそも会ったことも無い)ので怖いと思ってしまうのは申し訳ないですが…)

そしてその「怖い」という経験がトラウマのようになってしまい、それからだいぶ成長するまでは遺影が飾ってある部屋に入ることができませんでした。

 

それくらい人の視線に対する恐怖心的なものが強い私ですが、「何とか割り切ってしまえば」多少は平気になります。

例えば、私は絵を描くのが好きで、絵の練習のために時々雑誌などの写真をデッサンしてみる事があるのですが、「この写真に写っている人はあくまでも絵を描くための資料に過ぎない。」そう自分に言い聞かせることによってその被写体の人を「ただの絵を描くためのお手本」と割り切ることができるのです。

ただ、この頭の切り替えを行うだけでも結構な労力を使ってしまうし、この割り切りを目の前にいる生身の人間に対して、例えば、「今私の前にいる人はカボチャだと思うようにしよう」と思うようにしてみようと思ったとしても実際に目の前の人間をそんな風に扱うなんてとんでもない!って考えが先行してしまってなかなか上手くできません。

先程話題に出した遺影なんかもそうです。そう思ってしまうとバチが当たるような気がして…

雑誌とかに写っている人は割り切れるのは自分とは全くの関わりの無い相手だから、かもしれないです。よくよく考えたらもし自分の知り合いの写真を見て絵を描いてみてとなったら私は相当な覚悟を決めないと筆が進まなくなりそうなのが容易に想像できます…

この感覚は私特有のものなのか、あるいはASDHSP特有のものなのか(私にはHSPの傾向も少しあると思っています)、一般的に大なり小なり感じている感覚なのかは他人と比較したことがないのでわかりませんが、なんだか不思議な感覚だなぁと思ったのでした。

 

余談ですが、二次元の人間でも割とリアルな絵柄で描写されているキャラクターも三次元程ではないですがあまり目を合わせられません…デフォルメが強くなればなる程この緊張感?は軽減されていきます。

また、三次元でも人間以外の動物ではほとんど緊張感は出ないです。自分でもどうしてそうなのかはよくわからんです。

暗黙のルールがわからないことによる日常の弊害

ASDの特性の一つに「暗黙のルールがわからない」というものがあります。

私はこの特性が仕事だけでなく、日常生活でも気づかないうちにかなりの躓きとなってしまっているのではないかと思いました。今回はその具体的な場面について思い出してみようと思います。

・コンビニでお弁当を温める時

お昼ご飯を買うためにコンビニでお弁当を買って、それをレンジでチンしてもらう時、わずかではありますが待ち時間が発生します。お昼なので後ろでレジ待ちの人もいます。この時に横によけて後ろの人の会計をしてもらったらいいのか(もしそうしたとしてレンチンが終わったらどうすればいいのか、どの辺りで待機していたらいいのか)、それともこのまま普通に待っててもいいのかがいつもわからなくなります。

普通の人から見たら当たり前にできることだと思いますが、私は他にレンチンしてもらっている人の動きを観察してみても、それを自分がやるとしてどう動いたらいいのかでいつも迷ってしまって(暗黙のルールがわからない=他の人をお手本にして覚えることが困難であるため)パニックになってしまうのです。

そのためコンビニでレンチンしてもらうことを極力避けるようになり、未だに私にとって出来ないことの一つとなってしまっています。

・こちらでお待ちくださいと言われた時

さっきの話と少し似ているかもです。何年か前に贈り物を買いに来て、ラッピングをしてもらう時に「この辺りでお待ち下さい。」と言われました。「この辺り」と指し示されたところには椅子なのか何なのかよく分からない四角い箱のようなものがありました。

私は「恐らくこの箱のようなものに座って待っていればいいんじゃないか」とは思っていたのですが、先程述べたようにコンビニでの振る舞い方も分からない人間です。これが正解なのか自信がありませんでした。もしこの箱のようなものが椅子ではなく、オブジェ的なものだったり、もしかしたらもしかすると売り物だったりしたらとてもじゃないけど座れません。

周りから見て「何あの人、変なところに座っている(クスクス)」なんて思われたらどうしよう、と考えてしまって結局ずっと立った状態で待っていました。(この行動の方がよほど恥ずかしく見えるのかもしれませんが)

できればわかりやすく「この椅子に座って待っていてください。」と案内してもらったり、または誰が見ても「これは買い物客が座って待つための椅子」だとわかるデザインの物だったりするといいのにな、と思いました。

・クリーニングのハンガーの使い方がわからない

これはクリーニングのハンガーに限った話ではないですが、使い方の取説の無い世の中の大半の道具についての話です。その中の代表としてクリーニング後の服に付いているハンガーの使い方がわからない話をします。

クリーニングのハンガーはクリーニング店や服の種類によって形状がバラバラで尚且つ一般的?なハンガーと使い方が異なっている場合が多いと感じています。ハンガーの両側が洗濯バサミのような形になっているタイプのものは「洗濯バサミみたいに使えばいいんだな」と分かるのですが、ハンガー自体が一つの大きな洗濯バサミみたいになっているタイプのものはハンガーの首?辺りの部分を曲げるマーク的なものは一応書かれてはいるのですが、曲げようと思っても上手く動かず、これ以上力を入れたら壊れちゃうんじゃないかってくらい力を加えてみてもまだ動かなかったりしました。(結局は力を入れる方向がちょっとずれていたみたいです。)また、フック?のようなひっかけるところがやたらと多いタイプのハンガーも使い方で混乱する率が高いです。

もっと使いやすいデザインにして、できればクリーニング店で統一されていたらいいのに(服を痛めないためかもしれませんが同じクリーニング店でも違う形状のハンガーになっていていつも困惑しています)と思いました。

このハンガー以外にも例えば特殊な形状のパッケージの開け方が分からないとか、ホッチキスの針の詰め替え方が分からないとか、新しい電化製品は取説読まないと無いとまず分からないとか、あまりに日常的に起こるせいで正直言うと思い出そうとしても思い出せない(困りごととして説明できない)ものがたくさんあります。

たぶん普通の人では見ただけでどうやって使えばいいかわかるように作られているのだろうとは思いますが、暗黙のルールがわからない特性を持っていると謎の物体にしか見えない道具もよくあります。

できれば世の中のありとあらゆるものに取説があったらいいのにと思うのですが、それはあまり現実的ではないので真の意味で誰にでも使いやすい(見ただけで使い方がすぐわかる)ものが世の中にたくさん増えてくれたらいいなぁと思います。

暗黙のルールがわからないことでの困りごとはまだ思い起こせばたくさん出てきそうなので思い出したり、新しく発見があったりしたらまた書きます。

A市のショッピングモールに行くのが泣くほど嫌だった話

初めてブログを書いてみます…どきどき。

 

私にはASD自閉症スペクトラム)の特性があり、特に幼少期にはその特性が顕著に表れていました。

親から見たらとても育てにくい子だったと思います。親には感謝といろいろ迷惑をかけてごめんなさい、という気持ちでいっぱいです。

 

そんな私の幼少期ですが、親も含めた周囲の人たちや大人になった現在の自分から見ても理解不能な言動がたくさんあります。(それでも一応現在の自分でこれはこういう理由なんじゃないかな?と推測することならできると思います。)

今日はその中でも自分の中では結構印象に残っているA市のショッピングモールに連れて来られて癇癪起こして大泣きした話について書こうと思います。

 

私が幼稚園児くらいの頃だったと思います。(なので記憶があやふやな部分もありますが…)ある日家族でA市のショッピングモールへ行ったのですが、そこに着いてお店に入ろうとした途端、私は「ここ、嫌だ!!!」と言い大泣きしてその場から動こうとしませんでした。

周りから見たら意味がわかりませんね…当時の私も“なぜ嫌だったのか”についてはまだ幼かったこともあり、上手に説明できませんでした。

大人になった今思い返してみると、A市のショッピングモールが嫌だった理由は一つではなく、自分の中の様々な感情が入り乱れたというものなのではと思いました。

 

まず、前提としてこのショッピングモールはイ○ンみたいな感じの系列店であり、A市の他にB市にも同じ系列のショッピングモールがありました。

家から両方のショッピングモールまでの距離はそこまで大差はありません。

B市のショッピングモールの方が規模がやや大きめで吹き抜けがある構造になっていました。(当時の私は吹き抜けを見るととてもワクワクしていました笑)また、B市のショッピングモールへ行くまでの道のりも比較的整備された広めの道でスッキリとした景観でした。

一方のA市のショッピングモールは吹き抜けは無く、A市のショッピングモールまでの道のりは新しくできた建物、古い建物が入り混じっていてさらによくわからない広告看板がちょくちょく目に入ってきてなんだかごちゃついている、という印象でした。

(私は車から外の景色を見るのが好きでしたが、ASD特有の感覚の敏感さのせいか、ごちゃついた景観はあまり落ち着かず苦手だったのかもしれないです。)

 

そういったこともあり、当時の私は「なぜB市のショッピングモールに行くという選択肢もあるのにわざわざ(私が)あまり好きではないA市の方のショッピングモールへ行くのか、私には理解できない!B市の方に連れて行け!ギャース!!」

という感情だったのかもしれない、というのが現在の私が考えた結論です。

(これもASDの幼少期にありがちな感情かもしれませんが、自分が納得できない、理不尽だと感じる事柄に対して気持ちの整理が出来ずに癇癪を起こしてしまうのです…)

 

まとまりの無い文章になってしまいましたが以上で終わります。(4月17日追記あり

 

今調べてみたのですが、A市のショッピングモールは今もありましたが、B市のショッピングモールはもう存在しないようです。ショック…!

 

(4月17日追記)

ではこの癇癪をどうすれば鎮めることができるのか、というこの話の核にもなる部分が書けていなかったので追記します。

少し話題が変わるかもですが夏休みにおばあちゃん家に行くときに高速道路を使います。高速にもAインターとBインターがあり、こちらも両方自分の家からの距離には大差はなく、Aインターまでの道のりは途中まで私があまり好きではなかったA市のショッピングモールまでの道のりと被っています。そのため私はどちらかと言うとBインターの方を使って欲しかったですが大体はAインターの方を使われる事になります。

しかし、幼少期の私はその事に関して多少の不満はありましたが、癇癪を起こすほど泣き喚くことはありませんでした。なぜかというと目的地であるおばあちゃん家までの距離が明らかにAインターから行った方が近かったからです。もしかしたら料金も変わってくるのかもしれません。

このようなことが子供ながらに“理解できていた”ので気に入らないインターを使われたからといって癇癪を起こすことはありませんでした。

では話をショッピングモールの話に戻します。当時の私は上でも述べているように“なぜB市ではなくA市のショッピングモールに連れてこられたのかが理解できていない状態”だったために癇癪を起こしてしまいました。

当時の親目線からなぜA市のショッピングモールの方を選んだのか理由を考えてみます。あくまでも憶測ですが、

「A市の方が買い物しやすかったから。」

「A市の方が駐車場が停めやすかったから。」

などといったものかもしれないです。(たぶんそこまで大それた理由ではなく、なんとなく、といった意味合いが強いんじゃないかと思います。)しかしこういった抽象的な理由を幼稚園児だった私が理解したり推察したりするのは難しく、納得もできないだろうと思います。ではどうすれば良かったのでしょうか。

癇癪起こして大泣きしている状態になってしまうと頭の中がオーバーヒートしてしまっていてもう誰の言葉も耳には入らない状態かもしれません。元も子もない答えになってしまいますが、こうなったら落ち着くまで待つしか無いのかもしれないです。下手に声をかけても火に油を注ぐ事になってしまうかもしれません。残念ですが…

しかし、A市のショッピングモールへ行く度にこのような事になってしまうのも困りものなのである程度落ち着いてきたら

「A市のショッピングモールでしか買えない物が有ったからここに来たんだよ。」

「ここにはおいしいケーキ屋さんがあるんだよ。買いに行こっか。」

というような具体的でできれば当事者から見て自分事として考えられる理由を述べてみたりしてみると良かったのかもしれないです。(当時の親の行動を否定するわけではないですが)

後者のケーキ屋さんの声かけは特に自分事にしやすく、上手くいけばA市のショッピングモールに対して良いイメージを刷り込ませる事ができるのでメリットは大きいですが、受け取り方によっては「A市のショッピングモールに行けばケーキを買ってもらえる!」と行くたびに毎回ケーキをねだられる可能性もあるので一長一短ですね。

毎回ケーキを買うのが難しいのであれば、前者のように具体的にここに来た理由を説明して納得してもらうのが無難かもしれないです😅